日々雑感っ(気概だけ…)on Hatena Blog

思ったこと、思っていること。読んだ本、観た映画、TV。聴いた音楽…。会社でのこと、家族のこと、自分のこと。日々のうつろいを定着させています。はてなダイアリー開始は2003年、2006年4月から毎日更新継続中。2017年6月8日「はてなblog」アカウント取得、2019年1月「はてなダイアリー」から正式移行しました。アクセスカウンター2019年01月26日まではpv(2310365)です。

ジャニーズという偏見を抜きにして。

今週のお題「わたしの好きな歌」
昨日、ジャニーズ事務所社長、ジャニー喜多川さんが亡くなった。芸能界に巨大な男性アイドルプロダクションを創った功績は計り知れない。

私のジャニーズ体験は、何といってもフォーリーブス。小学4年生で観た唯一の主演映画「急げ!若者TOMORROW NEVER WAITS」が印象的で、曲中でその制作過程が描かれる(勿論フィクション)同名曲「急げ!若者」がとにかく好きでした。

急げ!若者 - フォーリーブス

ただこの映画は、ソフト化されていません。フォーリーブスのメンバー故・北公次が著したジャニーズ暴露本「光GENJIへ」がジャニーズ事務所の逆鱗に触れてフォーリーブスの存在は一時抹殺されていました。映画の版権はジャニーズ事務所にあり、当然封印されたまま。たまにファンによる上映会がされていて、私も10年ほど前に再見することができました。

その後、金八先生第1シリーズに出ていた田原俊彦野村義男近藤真彦がデビュー”たのきん”トリオとして一世を風靡。カミさんが、今年の新入社員に聞いたら、たのきんトリオ、若い人には分からないんだって。
光GENJIは「STAR LIGHT」「ガラスの十代」「パラダイス銀河」くらいは歌ったことあります。その後、シブがき隊、少年隊、SMAPTOKIO、V6、嵐、みんな1回は何かしら唄ったことあります。

SMAPは96年の「青いイナズマ」「SHAKE」97年「ダイナマイト」から2000年「らいおんハート」までは自分の中でのSMAPは勿論、ジャニーズ事務所黄金期でした。カラオケも良く歌いました。


見た目やダンスに目を奪われがちですが、アイドルという偏見抜きで、いい曲も多いと思います。完璧にプロデュースするジャニーさんの手腕。「ウエストサイド物語」を見て、エンターティナーを目指したジャニーズ事務所を作り上げたジャニー喜多川という人はやっぱりすごい人だと思います。

あ、ジャニーさん逝去の報を受けてのジャニーズ話ですけど、ジャニーズ以外にも好きな歌はいっぱいありますので、その話はいずれまた。


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高島忠夫さん

 一番印象に残っているのは、「クイズ ドレミファドン!」の司会と「ゴールデン洋画劇場」の解説でした。
 もちろん、俳優さんとして「キングコング対ゴジラ」をはじめ初期のゴジラ映画、東宝特撮映画でもよくお顔を拝見していました。
 晩年は鬱病だけでなく、糖尿病やパーキンソン病など、病魔に苦しめられていたそう。奥様の元宝塚男役のトップスター寿美花代さんの献身的な介護が胸を打ちました。

 神戸一高校時代は小松左京と一緒、関西学院大時代は団鬼六と一緒と、私の好きな作家さんと同時代を生きた人。
 常に明るくて銀幕映え、TV映えする俳優さんでした。
 その、常に”周りを楽しませよう”としたことの歪みが、重度の鬱病を患ってしまったといわれています。
 寿美さんとの結婚3年後、待望の長男が誕生したのもつかの間、生後5か月で住み込みの家政婦(当時17歳)に殺されてしまうという悲惨な事も経験。まさに波乱万丈な人生でした。
 老衰との事。2人の息子さんたちも紆余曲折はありつつも立派に芸能人、俳優として大成。2人がゴジラ映画に出た時は、高嶋ファミリーファンとしては嬉しかったなぁ。
 安心して逝ったと思いたい。でももう一度高島忠夫の元気な姿が見たかった。

 楽しい時間をありがとうございました。
 

君塚校長(赤木春恵さん)


 昨日女優の赤木春恵さんがなくなったそう。享年94。
 赤木春恵さんといえば「渡る世間は鬼ばかり」の五月(泉ピン子)の姑役、というよりも、わたし的には何といっても桜中学の君塚美弥子校長。1979年の第1シリーズから新八先生、金八先生第2シリーズ、仙八先生、貫八先生と長年にわたり桜中学を守ってきました。

 学内で起きる様々な問題に対して真摯に向き合い、君塚校長がいるから、金八先生を始め先生方が伸び伸びと子供たちに向かい合うことができたと思います。
 金八先生第1シリーズでは、当時まだ珍しかった女性校長として「十五歳の母」浅井雪乃に寄り添い、金八先生第2シリーズ「腐ったミカンの方程式」「卒業式前の暴力」では、金八先生と一緒に荒れる学校問題を身体を張って取り組んでいた姿が今も胸に焼き付いています。

 94歳ということは、金八先生第1シリーズの時で55歳。今の私とそんなに変わりありません。本当にすてきな女優さんでしたね。
 野村教頭(早崎文司さん)1996年(22年前!)に逝去されています。向こうの世界で桜中学同窓会ができますね。


 素敵な演技をありがとうございました、君塚校長。


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佐々淳行さん


 旧内閣安全保障室の初代室長を務めた佐々淳行さんが亡くなられた。享年八七。
 佐々さんの著作は文春文庫で殆ど読んでます。最初に読んだのは『東大落城 ― 安田講堂攻防七十二時間』今から20年以上前になります。その後、『連合赤軍あさま山荘」事件』 他、佐々さんは警察官僚時代に携わった数々の歴史的事件を自らノンフィクションとして書かれており、また、リーダーとしてのあるべき姿、危機管理のノウハウについても数多くの著作があり、実体験に基づく迫真の内容は大変参考になりました。

 佐々さんは昭和5年生まれ。東大法学部を卒業して警察庁に。警視庁目黒警察署を皮切りに、香港日本国総領事館領事、警視庁公安部外事第一課長、警視庁警備部警備第一課長の時に東大安田講堂事件など一連の第二次安保闘争に対する警備実施を指揮。72年にはあさま山荘事件に派遣され、警察庁関東管区警察局・警視庁等の幕僚団で警備実施をした。84年に防衛施設庁長官、2年後に退職し、同年内閣安全保障室の初代室長に就任。昭和天皇大喪の礼の事務取り仕切りを最後に、86年6月に退官。その後関連法人に天下ることなく、執筆活動や公園、TV出演で「危機管理」の必要性を訴え続けていました。「危機管理」というのも佐々さんの造語。


 うちの父親の1学年下なんですよね。佐々さんの事をもう一人の父親のように見て著作に触れていました。激動の昭和の、正にその中心にいた。官僚として私利私欲に走ったり、安全な道を歩むことなく、半ば自ら求めるように数々の事件に遭遇し解決していく。どうしても目立ってしまう為、やっかみも相当あったようで、一部上司や仲間から疎まれて警察庁長官にもなれず、それでも与えられた場所で精一杯国家の為に奉仕した。退官後は天下りを是とせず、自分の経験を後進に伝える為に時間を注いだ。この世代の人は亭主関白なのは当たり前。家庭を顧みないとかDVだとかいろいろな噂はあり、家庭人としては欠陥があったかもしれませんが、今の尺度で昭和一桁世代は語れません。

 頭が良いだけでなく説明もうまい。主義主張がはっきりとしていて生き方も含めてかなり感化されています。なので長いものに巻かれない、正しいと思うことは直言を辞さないようになってしまい、上には引っ張られず出世はしないわ、失敗したこともしばしば。佐々さんみたいに能力ないから当然ですが…(^_^;)。

 もう佐々さんのお話が聴けないのは残念です。
 しかし老衰とは…。天寿を全うしたという事なんでしょう。ゆっくりとお休みください。


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これもまた愛の形


内田裕也が妻・樹木希林さんへ追悼コメント発表「啓子 今までありがとう。見事な女性でした」

15日に死去した女優の樹木希林(きき・きりん、本名・内田啓子)さん(享年75)の夫でミュージシャンの内田裕也(78)が20日、所属事務所を通じてコメントを発表した。■「最期は穏やかで綺麗な顔でした。啓子 今までありがとう。人を助け 人のために祈り 人に尽くしてきたので 天国に召されると思う。おつかれ様。安らかに眠ってください。見事な女性でした」 樹木さんとは1973年10月に結婚したが、同居したのは最初の約1年半だけ。その後は別居状態を続けながら、つかず離れずの独特な夫婦関係を築いてきた。(後略)(スポーツ報知・9/20(木) 16:42配信)


 樹木希林さん。穏やかでありながら激しさを感じる個性的な女優さんでした。全身の癌転移を公表したのは2013年3月のことでした。以来、闘病生活を続けていたと思うのですが、その間も精力的に映画に出演されていました。
 ロックでファンキーなご主人、内田裕也は2回目の旦那。最初の結婚相手は、「血を吸う眼」や「傷だらけの天使」の辰巳などの名優、岸田森とは初めて知りました。
 私が記憶にあるのはなんといっても 「寺内貫太郎一家」のおばあちゃん沢田研二のポスターで身をよじりながら「ジュリ〜〜〜(>_<)。」という姿。いまだに目に焼き付いています。その時はまだ旧芸名「悠木 千帆」でした。芸名をオークションで売る番組も不思議な思いで見た記憶があります。そして後番組「ムー」樹木希林として出演。テロップで「悠木 千帆改メ」とあったのもまた不思議な感じでした。

 内田裕也とは、1年半の同居生活の後死ぬまで別居。1981年に内田裕也が無断で離婚届を区役所に提出するも、樹木は離婚を認めず、離婚無効の訴訟を起こし勝訴。一時は絶縁に近い状態のようでしたがその後は一緒にCMに出たりなんとも不思議な夫婦でした。

 内田裕也の最後の言葉は、妻に対しての最高の賛辞です。好きだからこそ自由にする。それでも手綱は握っている。そんな感じ。一緒にいるから愛し合っているとは限らない。これもまたひとつの愛の形。他人がとやかく言う事ではないということですね。

 樹木さん。楽しいドラマ、映画をありがとうございました。同じ時代に生きることができてよかったです。

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