仕事が入っていたのですが、昨日上司から電話があり不要になったとのこと。で昨日夜稽古に行ったら、明日富士見弓道場で川崎市弓道連盟主催秋季市民弓道大会あるけど行く?とのお誘い。せっかくなので出ることに。
19チーム57人が参加。3人立で4矢2回、計8本の的中数で競います。まぁ結果は聞かないでください(>_<)。ブシノナサケw
来月また性懲りもなく昇段審査を受けるのに大丈夫か?また連盟に寄付すことになるんだろうか…。
終わってから、昼食を兼ねた食事会をして解散。
弓をやっていると「やっぱり弓やってる以上、いくら形が良くても中らなきゃ駄目だよな」と思うことと「形をひとつづつしっかりマスターすることが大切で中るか当たらないかではない」という思いの間を行ったり来たりします。
中りという誘惑は、常に弓道をやる人にとっては甘美なもので、中りを求める姿勢の違い(練習方法の違い)で会が分裂するなんてことは日常茶飯事。私の場合は、決めきれていないというのが正直なところ。ただ一つだけ言えるのは、どんなに中りが出なくとも、しっかりと射法八節を自分のものにして、雨が降ろうと槍が降ろうと常に同じ精神状態をキープしていれば、矢はおのずと的に中るということ。そういう意味では、形をマスターすることの方に近いのですが、今回みたいに試合とかで衆人環視のもとですと、やっぱ多少の射形の乱れがあってもパンパン中る方がかっこいい。試合なんて中ってなんぼ。確かに「あの人入賞は逃したけど、きれいな射だったね」という称賛もありですけど、中らなければ当然優勝はない。もっとも天皇杯とか最高峰の試合になると、中るだけじゃダメらしいけど、そういう世界は雲の上の話。とはいえそれでも、地道に練習をして“正しい射”をマスターすることで、形も中りも求めること。これが正しい道なんだよなぁ。
弓なんて、中って獲物を捕らえる為の道具。そう割り切ってしまえば、形なんか気にしないでとにかく中る為の練習をすればよいのですが、戦国時代が終わり、飛び道具の席を鉄砲に譲って以降、弓に与えられているのは、立禅ともいわれる、精神修養なんだということ。それが弓道として現代に生きている。