「ホビージャパン」は、模型雑誌としての認識でしたが、創刊当初はミニカー紹介雑誌だったとは知りませんでした。この本は「ホビージャパン」創刊の経緯と、80年代中頃までの編集の裏側が書かれたノンフィクションです。
私が購読していたのは高校時代の1981年7月号から84年頃まで。
もともとプラモデル好きで、小さい頃からよく作っていました。最初は戦車や車、戦艦とかでしたが、宇宙戦艦ヤマトのプラモが作りたくて最初はゼンマイ駆動のおもちゃ然としたものしかなく、ぜんまいボックスを外して第3艦橋を自作すればディスプレイモデルになるな、と思い探していたちょうどその頃、バンダイからディプレイモデルが発売、そして100円のメカコレクションでガミラス、地球防衛軍の艦船が続々とプラモ化。そしてガンプラが発売されるに至り、自分史の中でのプラモ時代が最高潮に達します。
その後、イデオン、マクロスやダグラムなどのロボットもの、ウルトラマン、ゴジラなどの特撮もの、クラッシャージョウのミネルバなどなどキャラクターもののプラモに手を出したもののほとんど完成させず今に至ります。
作れなかった最大の原因は「ホビージャパン」の作例といっても過言ではありません。
毎号掲載される作例はどれも素晴らしい出来で、ワクワクしました。プラモを買ってきて、箱を開けて作例のような完成を想像する。高校生の頃って、時間があるようでなかなかない。すると今度まとまった時間が出来たらつくろーっと、と箱を閉じる。
まさかガンプラが30年以上経った今も新作が発売されるとは思っていなかったし、まして成型色そのままでも見栄えのいい完成をするとか、挙句の果てに接着剤も使わなくなるとか誰が想像したでしょう。
プラモデルを買うために模型屋さんに行列ができるとか、並べたそばから飛ぶように売れるとか、今じゃ信じられない。
そんなプラモ少年の憧れの詰まった雑誌が「ホビージャパン」でした。
実は、就職試験受けたんですよね。
新宿のホテルサンルートが試験会場で、試験内容は小論文。1問に「ファントム」「ゼロ戦」「ハリアー」とか3つの言葉があり、それを使って短文を作るという問題が10問くらい。ミリタリーものも好きだったので意味も分かり、そもそも文学部ですから、文章を書くのも得意。なので、苦も無く試験問題は書けました。合格発表は電話がかかってくるはずですが、当日掛かってこず、翌日からゼミの合宿に行ってしまった。合宿から帰ると葉書だったか封書だったかが届いていて連絡が付かなかったので採用を見送ることにしたと。どうやら翌日電話を貰ってたらしい。今なら携帯電話とかあったんでしょうが昔は固定電話のみ、留守番電話とかもついていなかったので、時すでに遅し。編集者になる夢は露と消えたのでした。後で連絡してみたら、”三題話はすごく良くできていたと”お褒めの言葉を頂きましたが、今となってはよかったのか悪かったのか、正に運命の分かれ道でした。人生変わってただろうなぁ。
最近もプラモ無性に作りたくなることがありますが、目も見えなくなり、手先の器用さもなくなり、おもちゃ屋の棚を観てため息をつくばかり。積んであるプラモも作られることはないんだろうなぁ。1個くらいは完成させたいものです。