今日大林宜彦監督追悼の特別編成で、13:30~「時をかける少女」が日本テレビで放映されてました。
エンディングがカットされて残念でしたが、この映画では、4月18日の土曜日が舞台、つまり”今日”。しかも昔は土曜日が半日授業で、その後理科室の掃除をしているから時間もほぼ同じ時間。これは粋な計らいなのかもしれません。
芳山和子が大学の研究室に残った未来は、10年後の1994年。それでも26年も前なんだ…。
「時をかける少女」を公開当時観た時は、確かに原田知世ちゃんはかわいいのだけど、ストーリー、映像ともに納得できませんでした。それはおそらく、今回初めて見る若い人も同じだと思います。
ところが、主題を「少女から大人の女性への変化を映画という虚構の世界を通じて描く」と考えると、これは傑作と思えるようになってきました。
大林版「時をかける少女」には性的なメタファーがあらゆるところに出てきます。
実験室で倒れるフラスコから出る白い煙。いい匂いがして、なんだか身体がふわっとなって…。その匂いはラベンダーの香り。その後のシーンで深町君の家の温室でラベンダーを見ながら深町君はこういいます。「ラベンダーから香水を作るとね、男性的な匂いとしては欠くことのできないものになるんだ。」
ラベンダーは男性的な匂いなんだそうです。
倒れた和子を発見し「どうしようかなぁ」と困惑するゴロちゃんに、深町は「堀川君、吉山君を抱いてくれないか?」という。ゴロちゃんは「はっ」とし、深町君を見る。すると「保健室に運ぶんだ、たぶん貧血だと思う」と、言い間違いに気づいたかのように付け加える。この場面で普通に考えたら「抱いてくれ」って言葉は、ふさわしいとは思えません。
そして和子を背中から抱き起し運ぼうとするが、「だめだ深町、お前こっち頼むよ」と上半身を深町君が、「俺足の方がいいや」と言って下半身をゴロちゃんが運ぶことにする。この頃の女性は下半身よりも上半身の方が見た目上男性との性差がある。しかも、保健室で休んだ後、倒れた理科実験室に観ん打で検証に行くと、割れたフラスコも荒らされた様子もない。不思議に思いながら理科室を後にする。その後唐突に立花先生(根岸季衣)が、「吉山さん、あの子、今、生理…」とつぶやき、バケツを片付けに行くホットパンツ姿の立花先生のおしりと太ももをカメラは追う(福島先生(岸部一徳)の視線)。
前半、様々な場面で、和子は「さよなら」を口にします。最初は委員長の神谷さんに、先生、ゴロちゃんとゴロちゃんのお母さんに。そして深町君の家の前に行くと、別れずに深町くんちの温室に寄ります。ラベンダーの香りを嗅いだ後の和子は、これまでの世界と決別するかのようにしつこく。。
その他、少女である和子が、実験室でラベンダーの(男性的な)香りを嗅いでから、「これまでの自分と違う」ということを口にします。
深町君は未来人で、和子の世界の住人ではない。しかし和子は深町君を好きになり大人になる。深町君は和子にとって”現実”の存在ではなく、和子にとっての現実の男はゴロちゃんにもかかわらず。
「愛はまぼろし」などといいますが、大林監督はその幻を原田知世という女性を通しフィルムに定着させたのかもしれません。
しかし幻は幻。そこに囚われていると現実生活は営めません。
そこで最後のカーテンコールがあるのではないかと私は考えます。カーテンコールがあることで、虚構の世界を完結させる事ができます。
エンディングのカーテンコールについて、数年前までは「いらない派」でした。虚構は虚構のまま終わらせる方がよい、現実に引き戻されるのは本意ではない、と。
しかしこう考えるようになりました。
もともと大林監督は映画は虚構であるという宣言を常にしています。それは冒頭に画面に流れる「A MOVIE」という言葉。
だから、エンディングも含めての作品で、カーテンコールがなければ虚構の世界に取り込まれたまま。エンディングがないとこの作品の傑作性は損なわれてしまう、と思います。
あくまでこの映画は、「時をかける少女」という題材を使って、原田知世という”女優”を光らせるための映画である、と。
なぜこの映画が名作扱いされるのか。
今のわかりやすい映画に慣れている人は、映像の奥に隠されたものを感じるとよいかなと思います。
もっとも私も何度か見てるうちにいろいろなことに気づいてきたんですけどね。
↓全編youtubeに上がってますけど、いずれ削除されるんだろうなぁ。