昨日会社の人と呑みながらこんな話をしました。
「井の中の蛙」という諺。
原典は、
荘子『秋水』「井蛙不可以語於海者、拘於虚也」(井蛙(せいあ)は以って海を語るべからず、虚(きょ)に拘(なず)めばなり)
から。
この諺に続きがあるのを知っていますか?
1つは、「されど、空の青さを知る」
1つは、「されど、井戸の深さを知る」
1つは、「されど、空の深さを知る」
1つは、「されど、空の蒼の深さを知る」
1つは、「されど、大空を見る」
1つは、「されど、天空を知る」
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要は、狭い世間しか知らないことを指摘された蛙が、
「そんなことを知らなくてもなー俺はこんな事を知ってるんだぜ」という負け惜しみ。
『大海を知らず』以降は、言うまでもなく荘子は言っていない、原典にはないもの。
したり顔で、この諺を持ち出してきた奴に、
「それにはこんな続きがあるのを知っていますか?」
と言って上のどれでもいいけど反論してみると、
まさか諺に反論されると思っていない相手は感心する。
でも、この反論は、反論になっていない。
「されど」という場合、「されど」の前の文を後の文で否定しなければ文として成立しない。
なのに、この文では、前文の『世間知らず』という内容をすり替えて反論しているに過ぎない。
話としては面白いけど、これを肯定してしまうと、世間知らずよりも洞察力が優れている方が有利ということになってしまう。
これは比較できるものではない。
どちらも優れている事に越したことはなく、世事に疎い頭でっかちの蛙はどの世界でも使えない。
感心させた時点でこっちの勝ちではあるけど…。