新潮文庫・熊井啓。
2009年文庫化された時に新刊で購入し、すぐに読んでいましたが、先日の44年ぶりの上映会でやっと本編を観ることができましたので、ひっぱりだして再読しました。内容は、熊井啓監督自ら「黒部の太陽」制作にまつわる前日〜後日談をまとめたものです。
「黒部の太陽」は、石原プロと三船プロという俳優が興したプロダクションが制作をしています。まずこの頃の映画というのは、制作―配給―劇場公開まで大手の映画会社が行っていました。だから、いくら石原裕次郎、三船敏郎という日活、東宝の看板スターでも、撮影所も、スタッフも、役者も揃えるのも難しい独立系のプロダクションが映画を創るというのは、大変な状況でした。
特にその状況を困難にしたのは、大手映画会社5社(松竹、東宝、大映、新東宝、東映)による映画会社同士の専属監督・俳優の引き抜きの禁止協定、通称「五社協定」です。五社協定では、実質上、たとえば東宝の俳優は、東宝の撮影所で、東宝の監督以下スタッフのもと映画を制作し、配給して東宝の映画館で上映する事しかできませんでした。昔は大宮東映オスカー、大宮東宝白鳥座とか、早稲田松竹とか、映画会社が映画館を直営していたり、独立した映画館でも東宝系とか東映系とかフランチャイズ系列がある程度決まっていました。とすると、そもそもスタッフ俳優を集めて、映画を完成させたとしても上映する映画館もない。そんな状況の中創られたのが「黒部の太陽」でした。
熊井啓監督は、日活の社員監督。しかし五社協定上、自社以外の映画演出はできない。東宝も自社専属ではないものの三船敏郎と、同じく日活も、独立プロを起しているとはいえ日活の看板スター石原裕次郎が勝手に映画制作をしていることにいい顔をしない。日活は「監督を貸し出さない、撮るなら会社を辞めろ」というが、五社協定に違反して会社を辞めることにでもなったら、そのほかの会社でも腰が引けて演出なんてできない。今なら、TVとか独立系でも演出の仕事はありますが、そういう時代ではなかったのです。
で、結局、熊井監督は日活に辞表を提出。しかし、激怒した日活社長は、熊井監督を解雇。そこで、裕次郎と三船は、大ヒット間違いなしのこの映画の配給を条件に解雇を取り消させ、映画を制作できる環境を整える。ここで、これまで映画人を悩ませていた五社協定という壁は、実質上無効になったのです。
映画は、黒部ダムを造る為に資材を黒部渓谷に運ぶ為のトンネル工事を描いた作品。黒部ダムは、全長5400m、総工費、建設当時の費用で513億円。当時の関西電力資本金の5倍、作業員延べ人数は1,000万人1956年に着工、竣工は1963年と7年の歳月をかけ、工事中の殉死者171人という途方もない大工事でした。特にこの工事を難工事たらしめたのは、日本でも最も多きな断層帯であるフォッサ・マグナ(中央地溝帯)のエリアを掘り進めることで、断層破砕帯にぶつかる可能が極めて高く、事実、82mもの破砕帯にぶつかってしまったこと。ただ、このトンネルができなければ、資材を運ぶことができない、つまり、黒部にダムはできない事になる為、どんな困難があっても掘り進めなければならなかった。
「黒部の太陽」が面白いのは、描かれるトンネル工事と、現実の映画制作がリンクし、困難に立ち向かって完成させていること。今となっては、伝聞でしか知りえない事ですが、制作当時は、いずれもビビットに感じる人も多かったはず。当然映画は大ヒットとなりました。
また、黒部ダム建設に当たった、施主の関西電力やゼネコン各社の全面的協力によりセット、エキストラはいうに及ばず、前売券の大量購入など、この映画が支えられた側面も大きかったのです。
映画作りには今でも困難がつきまとうけど、この時代の困難さは尋常なものじゃない。その代表作「黒部の太陽」制作に当たっての記録が、当事者によって書かれたこの本は、「黒部の太陽」を知っている人は勿論、映画好きにはたまらない労作です。
残念ながら、熊井監督も今はこの世になく、石原裕次郎、三船敏郎両氏も、プロデューサーの中井景氏、脚本の井手雅人氏も既に故人となっており、当時をを知る人はどんどん鬼籍にはいっています。そんな中この本が残されたことは、本当によいことでした。
後半は「黒部の太陽」のシナリオとなっており、同作を知る上で貴重な一冊です。お勧め。
- 作者:熊井 啓
- 発売日: 2009/01/28
- メディア: 文庫