もう10年くらい前に1回脳溢血で倒れており、しばらく入院、左まひ状態が続いていましたが、最近は徐々に回復、手は不自由ながら日常生活に支障をきたさない程度に回復していました。言葉が不自由になったのも今は充分聴きとれるまでになっていました。
母親から電話もらい、とりあえず入院をしたというので、まずは一安心。今日の仕事も抜けられない状態だったので、仕事が終わってから実家に帰りました。
病院に入ったのが、症状が出てすぐだったらしく、服薬して特に状況悪化は見られないらしい。また、普段通りに戻るとのこと。
まぁね、83歳なので、それなりに肉体にはガタがきている。7つ下のおふくろの方が、最近耳が遠くて、かすれ&小さな声しか出ない父親と耳の遠い母親の会話は、まるで唖と聾の会話状態。それでも今年、無事(かどうかはともかく)、金婚式を迎えていたという事が、母親との会話で知りました。なんちゅー不義理な息子。
更に聴いたのが、父親が昔生死を彷徨うような大事故に合ったという話。断片的には知っていたのですが、どうもこういう事らしい。
エレベータ会社の技術をやっていた父親。高度経済成長の波に乗り、エレベータ業界は設置台数もウナギ登り立ったに違いない。昭和37年に結婚し、翌年には女の子(姉貴ね)をもうけ、昭和40年には、第2子に待望の長男(私の事ね)も生まれ、父は公私ともに順調。そんな時、京都にエレベータ設置の為出張した父は、そこでとんでもない目に逢う。
工事中になんらかのミスでエレベータが落下。下で作業していた父親に直撃したそう。TVのニュースや新聞にも報じられたと。父親は救急車で運ばれ、複数箇所の骨折、内臓破裂という状況で、緊急手術、一命を取り留めたそう。そういえば、父親の腹にはまるで縦一文字に切腹したような傷があるのはその時の手術跡だと、昔一緒に風呂に入った時によく聴かされていました。もっとも、更に小さい頃は、「おまえはここから生まれたのだ」と言われ信じていた時期もあります。
さて、結婚3年目の母親にとってみれば、2歳の娘と生後6カ月の私を抱え途方に暮れたらしい。事故の場所も関西で、全く土地勘はなく、とはいえ父親は容易に動かせるような状態ではない為、自宅近くへの転院もままならない。
仕方なく母親は娘を親戚に預け、私を抱えて京都に行き旅館暮らしをしたそう。仕事中の事故なので、そこら辺の手配は会社がやってくれたのでしょう。私が看護婦さんに抱っこされてる写真とか、屋上で撮影した写真がありました。
約1年の京都との往復はすっごく大変だったらしい。その後父親は順調に回復したものの、その時の恐怖から作業が出来なくなり転職したらしいです。C型肝炎になったのもその時の輸血が原因らしいです。昔は輸血に関しても杜撰だったと父親がこぼしていたことがあります。
そんな苦労をあの夫婦はしていたらしい。
自分が家庭を持ったからこそ、そういう苦労って結構実感を伴って聴けます。
まずは、普通の生活に戻ってくれればと、不肖の息子ですが祈っています。