日々雑感っ(気概だけ…)on Hatena Blog

思ったこと、思っていること。読んだ本、観た映画、TV。聴いた音楽…。会社でのこと、家族のこと、自分のこと。日々のうつろいを定着させています。はてなダイアリー開始は2003年、2006年4月から毎日更新継続中。2017年6月8日「はてなblog」アカウント取得、2019年1月「はてなダイアリー」から正式移行しました。アクセスカウンター2019年01月26日まではpv(2310365)です。

「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」

木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか(上) (新潮文庫) 木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか(下) (新潮文庫)
 増田俊也 著・新潮文庫(上下巻)

 2011年にハードカバーが出てた時から読みたかったノンフィクション。文庫版でやっと読みました。
 そもそもそれほど格闘技に詳しいわけでもなく、力道山の名前を知っていた程度。だから並列されている”木村政彦”なる人物の事は一切知りませんでした。「国民的ヒーローの力道山を殺すって物騒な話だなぁ、表紙の男が木村政彦か、かっこいいな」その程度の認識でした。

 読んでみると、激動の昭和史的な街頭テレビで映し出されるシャープ兄弟vs力道山、あの時の力道山とコンビを組んでいた日本人が、全日本柔道選手権を13年連続で保持、「木村の前に木村なく、木村の後に木村なし」「鬼の木村」と讃えられた木村政彦でした。
 師匠の牛島辰熊に自分の分身として見いだされ以来、天覧試合での優勝を目標に来る日も来る日も稽古に明け暮れ、徹底的に柔道の技を磨いた木村は、全日本選手権を連覇、1940年の天覧試合を制する。そして戦後、GHQにより柔道の世界は大きく変容し、たくさんあった流派、特に最大会派の武徳会が解散、学制改革高専高等専門学校、今の大学)柔道も消滅し、いち早くスポーツとしての柔道を訴えた講道館が柔道を代表する流派となった。
 しかしそれまでの実践的な柔道に比べ、講道館柔道は立ち技から直接寝技に引き込むことが禁止されていたり、強さを求める牛島・木村子弟には物足りないもの。しかも他流試合を禁じていて、戦後生きて行く為、牛島は柔道の試合を興行とする"プロ柔道"を始め、木村もそれに参加をする。とはいえ、なかなか観客が集まらず立ち行かなくなり、木村は師のもとを出奔してハワイでのプロレスの試合に参加をする。とここまでが上巻。
 下巻では、アメリカ、ブラジルと海外を転戦していく木村が日本に戻り、力道山と知り合い、コンビを組んでプロレスを始める。プロレスには台本があり、木村は常に社長である力道山の引き立て役。プロレス勃興のこの時期、殆どの日本人は真剣勝負の格闘技と思っていて、まさか勝敗すら決まっているなんて思ってもいませんでした。日本選手権まで制し常に勝ちに拘っていた木村にとって、フェイクとはいえ毎回の負け役には嫌気が差していて「真剣勝負なら力道山に負けない」と発言、そこから1954年12月22日、蔵前国技館"昭和の巌流島"と呼ばれる力道山vs木村政彦の試合となる。結果は、開始15分後に、力道山が張り手と蹴りを浴びせて木村をKO。しかしこの試合、本来は「引き分け」をすることが決まっていたにもかかわらず、力道山が一方的に台本(ブック)破りを行い、油断した木村が負けたというものだった。
 力道山にしてみれば、最初から真剣勝負をしようとしており、しかし木村を油断させるために台本がある様に見せかけ、木村から念書までとりつつ、自分の念書はしらばっくれるという用意周到さ。結果、出る杭を打った形が見事はまったこの試合で、天覧試合制覇、日本選手権連覇の木村の名声は地に落ち巷間話題になることはなくなる。
 その後、日本でプロレスは隆盛を極めていく中、力道山は国民的大スターの絶頂期に凶刃に倒れる。一方の木村は、母校拓殖大学に柔道部師範として戻り、多くの後輩を育て、1993年、癌でこの世を去ります。享年73歳。


 どうも格闘技というのが苦手なので自分ではやりませんが、単純に「だれが一番強いのか」という話は、夢枕獏の「餓狼伝」や「獅子の門」を面白く読んでいたのでなんとなく分かります。朝鮮人から帰化して相撲取りになったものの西関脇までしか上がれなかったのは差別だとして、仄暗い私怨をバネに格闘技を興行として行うプロレスリングを娯楽産業として日本で開花させた力道山は、もちろん類まれな肉体はもっていたけど、格闘家というよりも実業家としての才能があった。一方の木村政彦は、ずるがしこく立ち回ることができるほど世事に長けておらず、この一戦を死ぬまで悔やみ続けます。
 
 今に至っても講道館木村政彦の存在を無視し続けていますが、柔道の世界に多くの弟子と足跡を残し、愛する人たちに囲まれ、まさに畳の上で死を迎えた。一方の力道山は、キャバレーでの小さな諍いでチンピラに刺されて亡くなった。幸せの女神はどちらに審判の旗を挙げたか自明だ。

 とはいえ木村政彦の破天荒な生き方は決して称賛されるものでもない。柔道の世界では間違いなく神だけど、いかんせん頭が悪く大酒呑みで女好き。ただ、当時死の病だった結核を患った奥さんの為、プロレスの世界に入り世界中で戦うことで金を稼ぎ薬を送る健気さや、女好きとはいえ商売女にしか手を出さない一途なところは、愛おしいくらい純粋だ。

 「男は強くなければ生きられない、優しくなければ生きる資格はない」フィリップマーロウの言葉ですが、木村政彦はまさにそんな人でした。
 万人にお勧めというものではないかもしれませんが、タイトルに興味を持った人なら間違いなく面白く読めます。