パウロ・コエーリョ著・山川紘矢+山川亜希子訳
この国で最高の弓の達人である哲也は、現在、小さな村の普通の大工として生きていた。近所に住む少年は大工の哲也が弓の達人はおろか弓を持っている姿すら見たことがない。ある日、遠い国から来た別の弓の達人が哲也を訪ね哲也に挑戦をする。哲也は挑戦を受ける。その後その弓の達人と村の少年に弓の真髄を教える…。
「あなたは技術を十分に自分のものにし、確かに弓道をマスターしています。しかしながら、あなた自身のマインドをマスターしているとはいえません。あなたはすべての状況が整った場所では弓を射ることができるでしょう。しかし、危険な場所では的に当てることはできません。射手は常に戦場を選べるわけではありません。ですからもう一度練習を始めて、不利な状況に備えてください。どうぞ弓の道を歩み続けてください。なぜならばこれは一生の旅だからです。しかし、どうか覚えておいてください。最上かつ正確に的を射ることと、魂の平安を保って的を射ることとは、全く別のことなのです」
「一旦、弓を離れたら、矢は戻ってはこない。それゆえに、そこに至るまでの動きが十分に正確で正しくないならば、矢を射るのを中止した方が良い。すでに弦が完全に引かれ、的がそこにあるからといって、不注意に矢を射るべきではない」
「的を見るときは、的だけに注意を払うのではなく、その周りのすべての状況に、意識を向けなさい。なぜならば、矢は放たれると、あなたが考慮しそこなった事柄に遭遇するからだ。それらは風、矢の重さ、そして、的までの距離などだ」
「矢は一本一本、異なる飛び方で飛翔する。あなたは何千本という矢を射ることができるが、その一本一本が異なる軌跡を描いて飛んでゆく。それが弓の道なのだ。」
弓を通して人生を語る寓話です。
著者は巻末に『弓と禅』の著者オイゲン・ヘルゲルに謝辞を述べており、この作品を記すにあたり強くリスペクトされているのが分かります。
冒頭の若者が弓の達人に挑むところや弓の達人の在り方などは中島敦の『名人伝』にも通じる内容です。
(『名人伝』は青空文庫で無料で読めます。)
リンク→中島敦 名人伝
「射即人生」という言葉があります。単に技術としての射ではなく射そのものに人生があり、人生に置き換えることができると。
弓道を「立前(立ってする禅行)」と言ったりする所以です。
弓道をすることは、人生を豊かにするものでなければならず、続けているとおのずとその境地に至る。もちろんそれまでに様々な疑問、不安、慢心、色々な感情が渦巻く。それでも「自分は何の為に弓道を続けるのか」という根本的な問に対しての答えを突き詰めると、人生の指針たるべ弓道の在り方を反芻せざるを得ない。
目先のことでいえば、中る、中らない、狙ったところに矢が飛ばない、美しく引くことができない、思ったように体が動かない、雑音が気になる、などなど悩みは尽きない。ただ、それもまた人生に置き換えれば同じことがあります。
150頁ハードカバー1,980円(税込)とちょっと高いですけど、
弓道をされている方、その他武道、何かしら”道”を究めようとされている方にお勧めです。