日々雑感っ(気概だけ…)on Hatena Blog

思ったこと、思っていること。読んだ本、観た映画、TV。聴いた音楽…。会社でのこと、家族のこと、自分のこと。日々のうつろいを定着させています。はてなダイアリー開始は2003年、2006年4月から毎日更新継続中。2017年6月8日「はてなblog」アカウント取得、2019年1月「はてなダイアリー」から正式移行しました。アクセスカウンター2019年01月26日まではpv(2310365)です。

さくらももこ

ちびまる子ちゃん」作者。8月15日に逝去されていたとの訃報が。。享年五十三。え!同じ年。調べたら1965年5月生まれ。学年1個下か…。
 乳がんを患っていたそうです。
 ショックだ。
 「ちびまる子ちゃん」1巻目が出た頃から話題で10巻くらいまで買ってました。その後出たスピンオフ的な「永沢君」も面白かった。アニメ化された「コジコジ」、スピリッツに連載されていた「神のちから」、みんな独特の世界観で面白かったなぁ。
 エッセイも楽しく『もものかんづめ』『さるのこしかけ』『たいのおかしら』、ロータスクーポンや、日ペンのミコちゃんをレポートした『うみのさかな&宝船蓬莱の幕の内弁当』は抱腹絶倒でした。90年代初頭、独身時代から結婚後数年はさくらももこ作品を出れば必ず読んでましたね。アニメ化された「ちびまる子ちゃん」も必ず見ていました。
 
 同世代なので、話題も共通。恐らくTVをたくさん見ていたであろうことも一緒。ちょっと斜に構えて世の中を見ているところも一緒でした。

 誰にでも描けそうだけどなかなか真似できない独特の絵もよかった。

 53歳かー。やっぱ早いなぁ。これからも楽しく、時にはホロリとくる作品を期待していたのに残念でなりません。

 ご冥福をお祈りいたします。
 ありがとうございました。

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津川雅彦さん


 好きな俳優さんがまた一人。
 芸能人一家に生まれ、戦後子役としてデビューしていたものの、本格的なデビューは1956年の日活映画『狂った果実』の石原裕次郎の弟役。私が嫌らしくてかっこいい大人だなぁと思ったのは、1981年東陽一監督の「マノン」。烏丸せつこのダイナマイトボディが見たいという理由だけで見に行った映画でした(^_^;)。1989年の渡辺淳一原作「桜の樹の下で」では母(岩下志麻)と娘(七瀬なつみ)の 両方から言い寄られるエッチな中年男性を演じています。これは既に社会人になっていたけど、すごくかっこよかった。津川雅彦は当時49歳。今の私よりも4歳も下( ゚Д゚)。80年代と比べて枯れてない自分はよいのか悪いのか。大人の渋さの欠片もないわ…。
 印象深いのは、伊丹十三監督作品「マルサの女」「同2」のできる役人(花村課長)を演じる一方、「あげまん」「スーパーの女」では、主人公の宮本信子演じるスーパーウーマンに助けられる情けない男と、両極端な役ができる稀有な役者さんでした。「お葬式」「タンポポ」にもほんの少し出ていて、伊丹映画の常連でした。。
 TVドラマ「サラリーマン金太郎」のヤマト建設会長役も松村君によくものまねされてました。
 役者業以外では、おもちゃ・絵本の販売店グランパパ」のオーナー。6億以上の債務超過ながら支援者がが現れて破産を免れ共同経営者名義で残っています。
 今は群馬県にあるロックハート城ももとは津川さんが北海道に建てようと取得解体したものの建設地の北海道の自治体と物別れになったなんてこともありました。

 立派な髭も印象的。優しそうな中に眼光鋭く、しかも若い頃は相応に遊んでいた感じ。理想的な大人の生き方です。ほんとかっこいい。

 奥様(朝丘雪路さん)に先立たれ3ヶ月。奥様のもとに旅立っていきました。
 
 享年七十八。
 もう少しドラマや映画で観たかったなぁ、残念。
 ご冥福をお祈りいたします。

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加藤剛さん

 
 私的には松竹・野村芳太郎監督「砂の器」(1974)の和賀英良。原作の前衛音楽家と違いクラシックの新進気鋭の若手演奏家が、野心の為に突然目の前に現れた恩人を手に掛ける。優しい顔に秘められた虚無と狂気の姿が名焼き付いています。
 TVでは、「水戸黄門」と交互にやっていた「大岡越前」、NHK大河ドラマ風と雲と虹と」の平将門役。1976年ですから、11歳。意識して大河ドラマをみた初めての作品。オープニングテーマは今でも好きです。
 

 最近もTV、映画に出ていましたが、さすがに往年の精悍さはなく弱弱しい感じになっていたので、心配でした。
 たばこは吸わず、酒も飲まず、ギャンブルもせず、芸能界にいながら(というと偏見ですが)、真面目なお人柄。

 享年80。
 人生って、80歳前後で大体終焉を迎える。私もあと30年前後ってこと。当然生まれてからこれまでの人生より短い。
 年間100冊近く本を読んでも、あと3000冊程度。映画はもっと少なくて1000本程度。弓道は頑張ってもあと2階級五段くらいが限度。
 その間仕事も並行してやらないと生活できない。
 芸能人も含めて、自分の見知った方の死を見聞きするにつけ、時間が限られているのを意識せざるを得ない。
 西日本豪雨でも100人を超す人の命が奪われている。たかが雨、されど雨。ちょっとした大地震並みの被害です。被害にあわれた方もまさか自分が大雨でなくなるなんていう最期を創造していた人はいないに違いありません。

 人ってほんといつ何時死んじゃうかわからない。だからこそ悔いのないように生きていきたいと思っています。


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桂歌丸師匠

 病に倒れながら、高座に上がり続けていましたが、本日午前逝去されました。享年81。
 私にとっての歌丸さんはなんといっても「笑点」です。
 笑点を見始めた頃は、大喜利司会は南伸介、歌丸さんは上手、小圓遊さんが下手にいての口喧嘩は本当に面白かった。そんな小圓遊さんは1980年に43歳の若さで急逝。4代目司会者の圓楽さんも当時はまだ並んで座っていました。こん平さんはまだ若手で勢いがあった。落ち着いた語り口の圓窓さん。そして木久蔵さん。この頃の焦点が私の中でのピークでした。

 歌丸さんがいなくなり、ついに笑点初期メンバーはすべていなくなりました。司会者も立川談志前田武彦、南伸介、圓楽さん、そして歌丸さん、みんないなくなってしまった。いなくなったといっても、円窓さん、こん平さん、木久ちゃんは、存命。それでも笑点は続く。日曜の夕方、最近はあまり見ないけど、ふとTVを付けると莫迦な掛け合いをやっている。シニカルな笑いが見られる。こういう番組は今となっては稀有になってしまった。いつまでも続いてほしいなぁ。

 歌丸さん安らかに。たくさんの笑いをありがとうございました。

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森田童子

 先日、森田童子さんが4月24日亡くなっていたというニュースの中で、「ぼくたちの失敗」が主題歌だった「高校教師」の一場面が流されていました。

 TVドラマ「高校教師」が放送されていたのは1993年。25年前ということに驚き。TVドラマが真田広之が理科の教師・羽村 隆夫、桜井幸子が二宮繭という女生徒でした。その年の秋、教師役を唐沢寿明、女生徒役を遠山景織子で映画化されました(TV版とは異なる物語)。10年後の2003年に教師役に藤木直人、女生徒が上戸彩でリメイク。これは93年版の続編でもありました。リメイク版からも15年も経ってる…。

 93年版はハマりましたね。90年±5年ってドラマが一番面白い時期だったかもしれません。仕事も忙しかったはずですが、ドラマよく見ていました。まして「高校教師」は、金曜10時のドラマで、花金の10時にドラマの為に家に帰ったりしていました(^_^;)。

 悩みを抱えつつ明るく振舞う桜井幸子がまぁ可愛くて、親友の持田真樹演じる相沢 直子も可愛かった。強姦常習教師藤村(京本政樹)に襲われちゃうんだよねぇ。事件後の相沢と不器用な体育教師新庄(赤井英和)の仲がまた何とも良くて。

 強姦、近親相姦、同性愛、教師と生徒の禁断の恋…。タブ―てんこ盛りで、当時でさえよく地上波でできたなと思っていました。今じゃそんな冒険をする制作者はいないから無理だろうなぁ。毎回目が離せませんでした。
 そして最後、逃避行の末に実家のある新潟に向かう列車の中で、小指と小指を赤い糸で結ぶ繭と隆夫。車掌さんが検札にやってくると2人は寝ている。車掌さんが通り過ぎた後、通路側にいた繭の手がだらりと下がる。エンドマーク。
 2人は寝ているだけなのか、死んでしまったのか、謎が残る最後でまた話題になりました。

 で、主題歌の「僕たちの失敗」
 1976年に発売された曲で、当時でも既に忘れられた曲でしたが、ドラマのヒットと相まってこの曲もリバイバル大ヒット。囁きかけるような節回しは、聞いていて心地よかった。
 本名も私生活も一切非公開で、大ヒットした93年も殆ど表に出てきませんでした。

 彼女の死をきっかけに、改めて森田童子を聴きたくなりました。
 ご冥福をお祈り申し上げます。


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西城秀樹

 驚きました。
 新御三家の中では一番かっこいいと思っていました。1972年デビューから79年のYOUNG MAN (Y.M.C.A.)までが自分の中でのヒデキ全盛期かなぁ。48歳の時に脳梗塞を発症、その後8年後に再発と、最近はリハビリで回復をしている姿をTVで見かけていただけに突然の訃報に唖然、電車の中でyahooニュースを見て思わず声を上げてしまいました。

 私の中西城秀樹ベスト3は
ジャガー

若き獅子たち
 
「ブルースカイブルー」

おまけで
 「ラストシーン」

みんな今聞いてもいい曲でしょ。

 西城秀樹というと「傷だらけのローラ」とか「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」「ギャランドゥ」とか絶叫、激しい系が有名ですが、しっとりとしたバラードをハスキーボイスで静かに歌う姿の方が好きでした。
 
 初の主演映画が「愛と誠」(1974年)。第1作のみ西城秀樹で、2部は南条弘二、3部完結篇は加納竜が大賀誠役、愛役はヒロイン役募集で愛役を射止めた早乙女愛が3作とも演じた。TV版は夏夕介が誠、池上季実子が愛でこれも良い配役でした。
映画版の愛(早乙女愛)は、2010年に早逝(享年51)され、今度は西城秀樹
またも昭和が遠くなりました。そりゃそうか、平成も今年で終わりだものなぁ。

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あぁ東海林先生逝く


作曲・編曲家の東海林修さん死去 「可愛いベイビー」

 「可愛いベイビー」など人気歌謡曲のアレンジから吹奏楽、アニメ音楽の作曲まで幅広く手がけた作曲・編曲家の東海林修(しょうじ・おさむ)さんが4月30日、悪性リンパ腫のため死去した。85歳だった。葬儀は家族で行った。■60〜70年代に「可愛いベイビー」(中尾ミエ)「危険なふたり」(沢田研二)やグループサウンズの曲を多く編曲。テレビ番組でも活躍し、「シャボン玉ホリデー」の音楽や「笑点」のテーマの編曲も手がけた。作曲でも「愛の肖像」(野口五郎)などがある。■72年にNHKの音楽番組「ステージ101」で発表された合唱曲「怪獣のバラード」を作曲。77年度全日本吹奏楽コンクールの課題曲として作曲した「ディスコ・キッド」は、今も広く演奏されている定番。シンセサイザー作品の先駆者としても知られ、81年の劇場用アニメ「さよなら銀河鉄道999 アンドロメダ終着駅」の音楽を担当した。(5/7(月) 17:25配信 朝日新聞デジタル


 初めてお逢いしたのは、2009年1月、NEC玉川事業所ルネッサンスシティホールで、翌日に控えた「さよなら銀河鉄道999」の吹奏楽版のリハーサルの場でした。翌日、みなとみらいホールでの本番では、一人ひとりに薔薇の花を手渡しで頂いて、なんとダンディな人なんだと思いました。その後「さよなら銀河鉄道999」の「戦いの歌」をやるときは必ずいらしていただき、同じように薔薇の花を頂きました。
 最後にお会いしたのは、昨年10月浦安市文化会館 大ホールで行われた『ディスコ・キッド40周年記念イベント「東海林修フェスティバル」』でした。
 私の中で東海林先生は、吹奏楽をやっていなかったので名曲といわれる「ディスコキッド」は知らず、もっぱら「さよなら銀河鉄道999」と80年代次々と出ていたシンセサイザーを使ったイメージアルバムの人でした。もう少し上の世代ですと歌謡曲のアレンジャーとしての仕事が有名。沢田研二「危険なふたり」フォーリーブス「急げ!若者」、GSのザ・タイガースザ・ワイルド・ワンズの局を多数手がけていたそう(ここら辺はさすがにおにーちゃんおねーちゃんたちの世代)。
 ファンを大切にし、奏者を大切にし、毎回快くサインをして頂きました。
 毎回来て頂いていましたから、また次回あれば当然そこに東海林先生に来ていただけるものと信じていました。年齢を考えればかなり無理をしていらして頂いていたんですよね。
 
 ここ数年相次いで父母を亡くし、命は永遠でないと知っていたはずなのに、こうして何度もお逢いしたことのある方の死に際し、またも、もっとお話ししておけばよかったのに…と後悔しきり。
 人生なんて後悔の連続です。。

 素晴らしい音楽をありがとうございました。間違いなく東海林先生の音楽を私の人生の1ページに刻まれています。
 そうまさしく青春の幻影のように…。


 

追悼 大杉漣


 突然の訃報で驚きました。享年66とのこと。
 80年代は、にっかつロマンポルノ、新東宝、オークラ、ミリオンフィルムのピンク映画の常連で、女優目当てで見ているのに大体大杉漣が出てました(笑)。
 90年代Vシネ大隆盛の頃は、これまた何を見ても大杉漣が出てくる々々(笑)。なので、4
30年位前から大杉漣のことは知っていました。90年代後半、北野武監督映画に出た頃から一般の映画やTVドラマでも見かけるようになって、今や名バイプレイヤーの筆頭格でした。最近はバラエティにも積極的に出演したりして、こわもてだけじゃない人間味溢れる感じが更に演技の幅を広げていたように思います。

 ピンク映画が斜陽になり、ピンク映画出身監督がVシネ、TVドラマ、一般映画を作り始めると同時にかつて一緒に仕事をした監督からのオファーで数々の作品に出るようになったということでしょうが、とはいえ、やっぱり監督たちが使いたい、と思わせるものがあったのでしょう。人柄もよかったに違いありません。一緒に仕事がしたいというのは、単に作品への起用というよりも「この人と仕事がしたい」と思わせるものの有無が大きいと聞いたことがあります。普通の仕事でも一緒ですね。

 本当に残念です。ご冥福をお祈り申し上げます。

 
 

野村沙知代という生き方。


野村沙知代さんが死去 プロ野球の元監督・野村克也氏の妻

 プロ野球の元監督・野村克也氏の夫人でタレントの野村沙知代さんが8日、亡くなった。85歳だった。所属事務所によると、この日午後4時9分に都内の病院で死去した。■沙知代さんは福島県出身で、克也氏とは1978年に結婚。二人の間の第一子・克則氏もプロ野球選手に育てた。沙知代さんは克也氏と結婚前から野球場に姿を現すなど、積極的な外交術を展開。タレントとなってからも、「サッチー」と呼ばれ、毒舌風の語り口で存在感を示してきた。(後略・12/8(金) 17:49配信 デイリースポーツ)


 浅香光代デヴィ夫人を相手どり、名誉毀損で訴えたのがワイドショーで話題になっていたのって、99年、もう18年も前になるんだ。どうでもよい話だったので、事の顛末は良く知りませんが、TV番組で歯に衣着せぬ物言いで、不快なおばさんだよなぁと思ってました。野村監督の奥さんっていうだけで、何故こんなにもてはやされるのか、見た目も決していいわけじゃないし不思議でした。

 W不倫の末、紆余曲折あって野村夫人となって後、マスコミにたびたび登場してましたが、周囲の一番の関心は「なぜ人格者の野村克也の奥さんがあんな人なのか」ということ。添い遂げた野村の株はさらに上がったね。
 
 昭和7年生まれ。戦中戦後いろいろな経験をされた方のようです。まわりにどう思われようと気丈に生きてきた人生で満足ならそれもありかと。

 ご冥福をお祈りいたします。

日野原重明さん


100歳超えて現役医師 日野原さん「習慣病」も提唱
 100歳を過ぎても医師を続け、「生きかた上手」などの著作や講演で広く知られた聖路加国際病院名誉院長の日野原重明(ひのはら・しげあき)さんが、18日午前6時33分、呼吸不全で死去した。105歳だった。戦後いち早く、患者と対等に接する医療に着目。看護教育の充実などに取り組んだほか、柔らかい表現で命を語る姿勢が幅広い世代に親しまれた。■ 1911山口県生まれ。京都帝大医学部卒。41年から内科医として聖路加国際病院に勤めた。同病院内科医長、聖路加看護大学長、同病院長などを歴任。2002年度朝日社会福祉賞。05年に文化勲章を受章した。■ 専門は内科学。54年、勤務していた聖路加国際病院で、国内の民間医療機関で初めて人間ドックを導入した。成人病と呼ばれていた脳卒中、心臓病などを「習慣病」と呼んで病気の予防につなげようと70年代から提唱してきた。旧厚生省は96年になって成人病を生活習慣病と改称し、今では広く受け入れられている。■ 医師が患者を大切にして、対等に接する米国医療の側面に戦後早くから注目し、看護師の仕事も重視した。51年の米留学後、医師の卒後臨床研修の改革や、看護教育の充実、看護師業務の拡充などを求めてきた。聖路加看護大学長を務め、88年には看護学として日本初の大学院博士課程を開設した。■ 自立し社会に貢献する新しい老人像を求める「新老人の会」会長として全国で講演。著書は200冊を超える。90歳で「いまだに現役で、想像力も行動力も若い人には負けない」と記した「生きかた上手」がベストセラーになるなど、命を語る著作が広く親しまれている。(7/18(火) 11:11配信 朝日新聞デジタル)


 100歳を超えてなお医療の現場にいつづけた。認知症になることもなく患者を診ることができるというのは、仕事人としてあるべき姿です。「命は時間。自分の時間を誰かのために役立てることが大事」といっておりました。自己の能力を自分の時間(命)の許すかぎり捧げ続ける。本当に素晴らしい人生です。

 世界初のハイジャック事件の舞台となったよど号(そもそも飛行機に名前がついてるって…それはまた別の話)偶然乗り合わせていたというのも有名な話。
 昭和16年医師になって、東京大空襲にあい、運ばれてくる患者に対してなにもできず無力感を味わった。
 地下鉄サリン事件の時は、大量に運ばれてくる被害者に院長として陣頭指揮をとった。

 まさに時代の生き証人がまた逝ってしまいました。
 ご冥福をお祈りいたします。