「悼む人」の続編。といっても本編の後日談が語られるのではなくて、静人の約7カ月の旅日記をそのまま物語とした日記文学。あたかも静人とともに悼みの旅に同行しているかのような感じを受ける。
悼みの旅は、前作を読んでいる時からどうしても理解ができず、もやもやしたまま上下巻を読了した。今回も同様。静人の行動、会社を辞めてまで悼む旅を続ける気持ちはわからないではない。でも家族や、静人に意見をする市井の人々の「まっとうに仕事をしろ」という声の方がよりシンパシーを感じます。
日々何人もの人が死ぬ。病死、殺人事件、災害、最近でも関西の豪雨、北海道の大地震で多くの人が亡くなった。ニュースでは「死者何名、行方不明者何名」と数字でしか語られない。人が死ぬこと、しかも全くの他人が死ぬことを全身で受け止めて、犯人だろうが被害者だろうが、善悪の区別なくその人の善き行い、愛し愛された事柄を記憶しておきます、と唱えながら悼む行為にどんな意味があるというのか。
死は乗り越えるもので、記憶し続けるものではない、と思います。勿論付き合いのあった人は折に触れて思い出すことは供養にもなるでしょう。それがお彼岸とかお盆とかのシステムとして組み入れたのが日本の仏教ではないかと。別にお彼岸とかお盆とか命日じゃなくても、思い出すのはいつでもよいと思うのです。たまに「あの人面白かったよなー」とか「世話になったよなー」とか「優しくしてくれたよなー」とか。それを赤の他人が「憶えておきます」といわれても、亡くなった方やその知り合いの人はうれしいものだろうか。
静人の悼む旅は、あくまでも静人の心のすきまを埋める旅であって、悼まれる側への行ないではないと改めて思いました。だから、鎮魂の旅ではなく、悼む旅なんだと思います。
確かに日々亡くなっていく人々の中には、悼まれることなく忘れられてしまう人もいると思います。それらの人々の死まで受け入れていたら生活ができません。静人の旅は日常生活から逃げる行為です。何も生み出すことはない。静人を諫めた、亡くなった親友の「自分のやるべきことをやって一人でも多くの人を救う事が死んだ人に対する餞になるんだ」というのが正解だと思います。
でも静人の旅から目を離すことができない。憧れる気持ちがどこかにある。静人のやっていることを肯定したい気持ちもある。だからページを繰る手が止まらない。
巻末の東日本大震災の災害現場を訪れる天童荒太のあとがき風エッセイがよい。自分も当時何度も復興ボランティアにいったので気持ちはよくわかります。
深く考えさせられる本なので元気な時に読むのをお勧めします。
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