時は止まっていてくれない。
生あるものは死に向かって確実に歩みを進めていく。朽ちていく。
身体の自由は間違いなく奪われていき、判断力も失われていく。
仕事は生きるために必要だけど、それは食べる為に、生活をする為に必要なのであって、仕事を”生きがい”と感じるのは錯覚。
”生きがい”と感じさせることの方が、使う側、経営者や客にとって都合がよいからだと思っています。
勿論、自分の実力のみで誰にも頼らず、被雇用でもない、自分の思ったものを形にして、クライアントからの要求は、あくまでもその個人の産みだしたものに価値を見出してくれるという事が仕事として成立しているならば、それは”生きがい”といってよい。
しかし、雇われて報酬を貰っている人、客からの要求に応えて結果を出している人が、「仕事は私の生きがい」といっている場合、それは錯覚に過ぎない、と思います。
本当にそれは自分のやりたい事なのか。
そうだ、と言い切る人もいると思いますけど、それは長い時間をかけて洗脳されたおめでたい人です。憐れ。
かといって、仕事がちゃんとできない人は、共同体の中では”お荷物”となる。仕事は個人が生きる為だけでなく、共同体を維持するために必要な事だから。
「働かざる者食うべからず」だ。
無人島で自分以外誰もいない場合を除き、共同体の最小単位は家族。家族を食べさせることができない場合、”役立たず”の烙印が押され、共同体を構成する一員とは見做されなくなる。
共同体で生きる以上、与えられた役割を担う必要があり、最低限の成果を出さないといけない。
必要最小限の成果で共同体は本来維持される。必要以上の成果を求められ、成果が出た時、それは、自分にも恩恵は多少あるだろうけど、大部分は自分以外のものになる。
自分の本当にしたいことは何なのか。一生をかけてそれにたどり着いた人が真の意味で幸せな者だと思う。
それを探す事が人生の意味。
平安時代の流行歌を集めた梁塵秘抄にある歌、
「遊びをせんとや生れけむ 戯れせんとや生れけん 遊ぶ子供の声きけば 我が身さえこそ動がるれ」は、直訳すれば、
「(子供は)遊ぶために生まれて来たのだろうか。戯れるために生まれて来たのだろうか。遊んでいる子供の声を聴いていると、私の身体さえも動いてしまう。」
ですが、
個人的には、遊ぶ子供の声(心から楽しむ声)を聴いて、自然と体が動いてしまう事こそが、本来、人としてあるべき姿、と思います。
誤解をしてはいけないのは遊び=放蕩、怠惰ではないという事。
自分の中の”遊びこころ”を大切にしたいと思っています。