1897年9月21日、アメリカニューヨークのサン新聞(「The Sun」)に「Is there a Santa Claus?」と題された社説が掲載されました。以来毎年クリスマスになると、この社説が再掲されていました。日本では、偕成社から小型の絵本が出ていて、私も30年以上前に購入、いつもこの時期読むようにしています。
ヴァージニアちゃんという8歳の女の子がサン新聞に「サンタクロースはいるの?」と質問のお手紙を出し、それを論説委員のフランシス・ファーセラス・チャーチが紙面で答えています。
それに倣い、私もクリスマスの時期にこの社説をブログで紹介しています。
青空文庫で公開されておりますので、以下転載します。
☆☆
本紙は、以下に掲載される投書に対してただちにお答え申し上げるとともに、このようにまっすぐな方が読者におられることを、心から嬉しく思います。
「こんにちは、しんぶんのおじさん。
わたしは八さいのおんなのこです。じつは、ともだちがサンタクロースはいないというのです。パパは、わからないことがあったら、サンしんぶん、というので、ほんとうのことをおしえてください。サンタクロースはいるのですか?
ヴァージニア・オハンロン」
ヴァージニア、それは友だちの方がまちがっているよ。きっと、何でもうたがいたがる年ごろで、見たことがないと、信じられないんだね。自分のわかることだけが、ぜんぶだと思ってるんだろう。でもね、ヴァージニア、大人でも子どもでも、何もかもわかるわけじゃない。この広いうちゅうでは、にんげんって小さな小さなものなんだ。ぼくたちには、この世界のほんの少しのことしかわからないし、ほんとのことをぜんぶわかろうとするには、まだまだなんだ。
じつはね、ヴァージニア、サンタクロースはいるんだ。愛とか思いやりとかいたわりとかがちゃんとあるように、サンタクロースもちゃんといるし、そういうものがあふれているおかげで、ひとのまいにちは、いやされたりうるおったりする。もしサンタクロースがいなかったら、ものすごくさみしい世の中になってしまう。ヴァージニアみたいな子がこの世にいなくなるくらい、ものすごくさみしいことなんだ。サンタクロースがいないってことは、子どものすなおな心も、つくりごとをたのしむ心も、ひとを好きって思う心も、みんなないってことになる。見たり聞いたりさわったりすることでしかたのしめなくなるし、世界をいつもあたたかくしてくれる子どもたちのかがやきも、きえてなくなってしまうだろう。
サンタクロースがいないだなんていうのなら、ようせいもいないっていうんだろうね。だったら、パパにたのんで、クリスマスイブの日、えんとつというえんとつぜんぶを見はらせて、サンタクロースをまちぶせしてごらん。サンタクロースが入ってくるのが見られずにおわっても、なんにもかわらない。そもそもサンタクロースはひとの目に見えないものだし、それでサンタクロースがいないってことにもならない。ほんとのほんとうっていうのは、子どもにも大人にも、だれの目にも見えないものなんだよ。ようせいが原っぱであそんでいるところ、だれか見たひとっているかな? うん、いないよね、でもそれで、ないってきまるわけじゃない。世界でだれも見たことがない、見ることができないふしぎなことって、だれにもはっきりとはつかめないんだ。
あのガラガラっておもちゃ、中をあければ、玉が音をならしてるってことがわかるよね。でも、目に見えない世界には、どんなに力があっても、どれだけたばになってかかっても、こじあけることのできないカーテンみたいなものがかかってるんだ。すなおな心とか、あれこれたくましくすること・したもの、それから、よりそう気もちや、だれかを好きになる心だけが、そのカーテンをあけることができて、そのむこうのすごくきれいですてきなものを、見たりえがいたりすることができる。うそじゃないかって? ヴァージニア、いつでもどこでも、これだけはほんとうのことなんだよ。
サンタクロースはいない? いいや、今このときも、これからもずっといる。ヴァージニア、何ぜん年、いやあと十万年たっても、サンタクロースはいつまでも、子どもたちの心を、わくわくさせてくれると思うよ。
(ニューヨーク・サン紙社説(担当:フランシス・ファーセラス・チャーチ) The New York Sun (written by Francis Pharcellus Church 大久保ゆう訳)
青空文庫より転載(http://www.alz.jp/221b/aozora/there_is_a_santa_claus.html)
☆☆
いまだにロシアのウクライナ侵攻が続き、中東のイスラエルでパレスチナのガザ地区を支配するイスラム組織ハマスとイスラエル軍が戦闘状態。他にも国同士の戦争、内戦が起きているところ、いつ戦争が起きてもおかしくないところが沢山あります。
武器を使った争いでなくとも日常の中にも多くの争いがあります。誰も攻撃されて気持ちいい人はいない。少しでも相手の気持ちに立てば、拳を振り上げることはなくなるのに。
直接的な暴力だけではなく、言葉も立派な暴力になる。こんな言い方をすると相手は傷つかないか、これは言っても大丈夫な事か、一拍置いて考えれば誰でもわかること。なのにそれができない人が多い。もちろん自分だって、傷つけてしまったことは沢山あると思う。そういう些細なことが原因となって争いの種になる。
(うまれでくるたて、こんどはこたにわりやのごとばかりでくるしまなあよにうまれてくる)
宮澤賢治「永訣の朝」の一文です。
(今度)生まれてくる時には、こんなに自分のことばかりで苦しまないように生まれてきます。
私、今年の下半期、人としてほとんど使い物になりませんでした。いい歳して自分の駄目さ加減を思い知りました。夜も眠れず、毎日鬱々とした日々を過ごしていましたが、このままじゃいけないと思い、10月くらいから徐々に気持ちを切り替えてきました。でも身体はやっぱり付いていかず、いまだに人が多いところはちょっと怖い。あと喋る時に吃音になってしまう。それでも薬のおかげで眠れるようになり、症状もずいぶんよくなってきました。
今年のサンタさんへのお願いは、健康な身体とこころを取り戻したいので手伝ってほしいということ。もうね、それだけ。
いつも拙blogを読んで頂いている皆さん。
初めて読んで頂いた皆さん。
みなさんのもとにもサンタクロースが来ますように。
メリークリスマス。
昨年金の星社から新訳の絵本も出ています↓