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「シン・ゴジラ」感想6とスピンオフストーリー


 大ヒット御礼「名台詞ステッカー」が配布されるということで、ついに4回目観ちゃいました(^_^;)。既に公開から1ヶ月を越えているのに週末レイトショーで3分の1くらい客席埋まっているというのは結構すごい事なんじゃないかと。
 個人的には、ロードショウ期間中に同じ映画を4回も毎回お金を払って観たのは、人生初です(昔は入替制ではなかったので、一度入館してしまえば、何回観てもよかったのです)。


 公開から1ヶ月、ネット上にもネタバレ考察された内容がずいぶん上がる様になってきました。そんな中でスピンオフ的なショートストーリーがtwitterにあって、私もうるうるしてしまいました。以下転載します。


「『無人在来線爆弾』の裏であったかもしれない、鉄道マン達の葛藤と奮闘」


 これなぁ、私「シン・ゴジラ」見て、あの在来線爆弾のシーンで涙出てきたのな。ちょうどアレなのよ、東日本大震災の後の、三陸鉄道に関する本を読んだ後だったから。三陸鉄道北リアス線南リアス線だったか、震災の時にとんでもない大被害を受けて、それでも鉄道員の人たちは「一日でも早く復帰させるぞ!」って死にものぐるいで頑張って。停電で社屋使えないから、列車の発電機使って車内を本部として、わずか5日で一部区間ながら運転を再開させたのよ。かつて知っていた景色からあまりにも変わり果てた瓦礫の街を横に、運転士さんは涙を流したのよ。でも、生きていた住民の人達は、「鉄道が来た!」と、涙を流して喜んだのよ。このまま自分たちの故郷が消えていくのかと不安になっていた人たちに希望を与えたのよ。それから三年間、三陸鉄道の人たちは苦労に苦労を重ね、ついに全線を復活させた。ただの仕事だからというだけではない、鉄道とは街と街をつなぎ、人を運ぶ、社会の最も重要な土台なのだと、それを守る尊さを知る者達の、強い使命感があればこそなのよ。


 きっと「シン・ゴジ」の世界の鉄道員たちも、自分たちの総本山である、百年この東京を見守り続けた東京駅が踏み潰され、悔しさに涙しながらも「必ず復活してやる!」と誓ったと思うのよ。でもそんな彼らのもとに、「使わせてくれ」と、要請が来たのよ。
 「この車両は、私達にとって、命・・・いや、我が子も同然、それをわかった上で、そのようなことをおっしゃっているのか?」と、鉄道員達は自衛隊員に問うたと思うのよ、静かに頭を垂れ、自衛隊員(多分小林隆さんあたり)は「はい」と答えた。
 ゴジラが踏み潰した東京駅には、たくさんの多くの人々の思いが交差した場所だった。戦時中、戻ってこなかった兵士。疎開で離れ離れになった親子。集団就職で震えながら降り立った若者。夢をいだきそして夢破れ去っていった者・・・何千万といいう様々な人々があの地を訪れた。
 そんな場所を、ゴジラは踏み潰した。憎しみでも怒りでも享楽ですらない。「ただそこにあって邪魔だったから」くらいなもの。壊したという自覚すらない。あの場に染み付いた百年の思いを否定した。そんなバケモノに一矢報いれるのは、人の思いを運び続けたもの以外にない。
 作戦前夜、鉄道員達は誰ともなく集まり、旅立つわが子たちを徹底的に整備した。ほんの僅かなミスもさせるものかと、ある者は思い出を語り、ある者は涙をこぼした。そして当日、引き渡しの時、彼らは頭を垂れ、「どうぞ、よろしくお願いします」と、やって来た自衛隊員たちに託した。
 自衛隊員達は敬礼をもって応え、「決して、無駄にはいたしません」と受領した。そして作戦開始ーー破壊神を思わせる暴虐の怪物は、激痛に身を捩らせ、悲鳴を上げる。それを中継で(あったとしたら)見ていた職員たち、「見たかゴジラ! そいつらは強ぇえだろ!」と戦うわが子たちを拳を握って見守った。
 全てが終わった後、職員は瓦礫の中、ボロボロに焼け焦げた在来線の破片を拾う。「痛かったろうなぁ・・・熱かったろうなぁ・・・ごめんなぁ・・・ありがとうなぁ・・・」破片を握りしめ、ボロボロと涙をながす。そして、あらためて誓う。「必ず、この場所を、かつてのようにしてみせる」と。


 という裏のドラマを想像すると涙が止まらなくなった。だからアレなんだよ、「ゴジラにニンゲンドラマがない」とか聞くと、「え〜〜〜!?」って思っちゃうのよw(SOW@新刊五巻発売中!!さん @sow_LIBRA11 2016-09-09 09:52:56〜10:21:23 )

(イラスト妖介 @gurumeda さん)

 
要はそういうことなのです。
今回のゴジラ映画、ゴジラが出てくるのは全体の半分もありません。ほとんどが会議、閣議、事務方の打ち合わせ等々裏方ばかり。国外100か国以上での配給も決まったようですが、先行している国での評判は芳しくないという話です。
そりゃーそうです。怪獣が大暴れするカタルシス映画を期待していったら、ゴジラに銃弾1発撃つだけで総理大臣の許可を得るまでの承認作業を延々と見せられても???となるに違いありません。
しかし、画面にゴジラの出ていない時こそ、ゴジラの存在を感じるという二律背反な状況がこの映画にはあるのです。「いないのに、確実にいる」でもその感覚は唯物的思考の人には理解できません。
登場人物が、ゴジラ対策の事のみに集中している画面を観ることで、それぞれのバックボーンを観客が想像する。台詞がある人は勿論台詞のないない人にまで思いを馳せることができる。そういう“余白”みたいなものを感じさせる映画といえます。