日々雑感っ(気概だけ…)on Hatena Blog

思ったこと、思っていること。読んだ本、観た映画、TV。聴いた音楽…。会社でのこと、家族のこと、自分のこと。日々のうつろいを定着させています。はてなダイアリー開始は2003年、2006年4月から毎日更新継続中。2017年6月8日「はてなblog」アカウント取得、2019年1月「はてなダイアリー」から正式移行しました。アクセスカウンター2019年01月26日まではpv(2310365)です。

弓道三昧(1日目)

 この3連休は体育の日が絡んでいるので、弓道に集中することにしました。今日は、17時〜21時の4時間、自由練習。
 弓を射ている以上、当たらないのはとても哀しい。ちゃんと同じようにやっているつもりでも、全然当たってくれない。今日は特に駄目でした。
 弓って、簡単そうに見えますが、ちょっとしたことで全く中りが出なくなります。心理的な要因もあると思いますが、人間の身体が正確に動いてくれない事が一番の原因です。


 ボウガンという矢を発射する銃形状のもの、ありますよね。要は、あの銃身部分を人間の身体がやっていると思うと判りやすいかも。矢を番え、同じ位置までまっすぐに引き、引金を引き弦を離す。すると、照準通りに的に一直線に向かう。人間が持っていれば、的から外れることがありますが、台座に付けてしっかりと的を狙えば、多少風の影響は受けるにせよ、大体同じところに飛んでいきます。
 その銃身が、人間の身体だとしたら、どうでしょう。引く力、骨の位置のちょっとした違いで、飛んでいく先は大きく変わります。しかも和弓の場合は、照準がありません。それで28m先にある36cm(1尺2寸)の的に当てることが如何に大変な事か。手先の数ミリの違いが、28m先では数十センチの狂いになります。
 今日も変な癖がついてしまって、何回射ても矢が下にいってしまう。原因はいくつかあるので、気をつけながら引くのですが、あっちが直ればこっちが狂うの繰り返し。弓道が精神の武道といわれる所以は、何があっても、どんな場においても、同じ射をすることができる心の強さが必要だからではないかと思います。矢が的に中れば普通ならうれしいし、外れれば悔しい。でもそれを表に出すことなく、静かに弓を倒し、顔を的から外します。中らない時は、いろんなことが気になるので、いちいち手の位置を確認したりしたいけど、それもやってはいけない。練習で、確認する癖をつけてしまうと本番の時に出てしまう可能性があるからね。

 ほんとストイックな武道です。

 
弓道を始める前に、「禮記射儀」という一文を斉唱します。「禮記(禮経)」は、周から漢にかけて儒学者がまとめた礼に関する書物を、戴聖が編纂したもので五経(『詩経』・『書経』・『礼経』・『易経』・『春秋経』)のひとつ。
「禮記射儀」は、「禮記」の中の射義編の冒頭の部分と最後の部分。冒頭の「古者諸侯之射也、必先行燕禮。郷大夫士之射也、必先行郷飲酒之禮。故燕禮者、所以明君臣之義也。郷飲酒之禮者、所以明長幼之序也。」「故射者進退周還必中禮。内志正、外體直、然後持弓矢審固。持弓矢審固、然後可以言中、此可以觀徳行矣」と最後の部分の「射者、仁之道也。求正諸己。己正而後發。發而不中、則不怨勝己者、反求諸己而己矣」をあわせたもの。
書き下しすると次のようになります。
「射は、進退周還 必ず礼に中り、内志正しく 外体直くして、 然る後に弓矢を持ること審固なり。弓矢を持ること審固にして、然る後に以って中るというべし。これ以って徳行を観るべし。
射は仁の道なり。射は正しきを己に求む。己正しくして而して後発す。発して中らざる時は、則ち己に勝つ者を怨みず。反ってこれを己に求むるのみ。」


全体的に身に沁みる言葉なんですけど、特に、「発して中らざる時は、則ち己に勝つ者を怨みず。反ってこれを己に求むるのみ」ってところ、日常にも十分感じます。
成功していないのは自分のせい、成功した人を怨んじゃいけないよ、と。まぁその通りですね。
失敗して原因を他責にしたい気持ちはありますけど、少なくとも自分が進めている事については、他人が悪いんじゃなくて、自分が悪いんです。
判ってるんですけどね、なかなか難しい境地です。だからこそ有難いお言葉として残ってるんでしょうけど。


さ、明日はamから弓道場に行きます。癖抜けているといいなぁ。。