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「シン・ゴジラ」感想その2 登場人物と作劇


(物語の中身に触れることもありますのでご注意ください。)
 昨日に引き続き「シンゴジラ」の感想を。2回目は「登場人物と作劇について」です。
 これまでのゴジラと明らかに異なるのは、私怨やごく私的な感情を持った人間が一人も出てこないこと。突如現れた古代生物に思いをはせる古生物学者も、怪獣に家族や仲間を殺された人もいない。秘密兵器を極秘に開発する科学者も、秘密組織もなし。勿論対戦怪獣を南の島から連れてきてひと儲けなんて奴もいないし、宇宙人も出てきません。その他の怪獣映画でもこういう人が一人も出てこない映画はない。「ガメラ2レギオン襲来」も怪獣vs自衛隊を描いた傑作ですが、それでも少年科学館の一介の学芸員水野美紀)とかNTTの職員(吹越満)が国家存亡の危機に絡んでくるのは、やっぱり不自然。とはいえそれを不自然と感じさせない傑作ですが。

 ゴジラクラスの巨大生物が出てきたら、やっぱり全体の指揮を執るのは内閣だと思います。そこに民間人の入る隙はない。御用学者が無難な事しか言わないのは当たり前のことで、結局色々な決断をしなければならないのは総理大臣の役目。自衛隊に限らず、仕事として災厄に立ち向かうのが公務員の仕事です。しかもそこにヒーローやマッドサイエンティストはいらない。巨大生物に対して個人の怨みなど消し飛びます。ただ、映画としてみた場合、観客は誰かに感情移入ができることがいい映画の条件だったりします。なのにヒーロー、ヒロインらしい人が誰もいない。怪獣映画の文法どころか、映画としての文法すら無視をしています。


 一応主人公らしい人物、内閣官房副長官の矢口(長谷川博己)も、ちょっととんがったことを会議で発言するけど、基本的には各省庁から集められたチームのリーダーというだけ。米国大統領特使の日系三世のカヨコ・パターソン(石原さとみ)も感情移入できるほどかわいくない。登場人物の誰一人、感情をあらわにすることはない。一度だけ矢口が荒れることはあるけど「落ち着け」と諭される。この映画では、登場人物すべてが仕事としてゴジラに対峙している。私たちは仕事場を見ているわけ。
 仕事をしていたら、同僚がどこに住んでいて家族構成がどんなでくらいはなんとなくわかりますが、それでもその中の感情までは知りえないし、仕事とは関係のないこと。日本に上陸したゴジラを殺すにせよ逃がすにせよ、それは仕事で、できる限り被害を最小限にすることに重きが置かれる。

 突飛な超化学兵器が出ないというルールも大切で、そういうルールの中だと本来ゴジラを相手にするのだけで精いっぱいなのに、通常兵器が利かない=やっぱ核兵器使うしかないでしょ、と日本なんてたかが極東の島国と思ってるアングロサクソンとか中露の奴らとの戦いも水面下で行わないといけない。そんな政府の苦悩も、国家間の舞台裏をみているようで、ちょっとしたカタルシスを味わえる。人間の真の敵は人間かもしれない。


 無個性な集団としての力で国を維持してきたのが日本という国で、東日本大震災後の世界を復興させるのもやっぱり一人のヒーローが魔法を使ってやる仕事ではなく、何千何万の無名の公務員や市井の人が知らず知らずのうちに力を合わせて再建していくものです。
 おそらくこういう作劇というのは、今の日本だからできるものだと思いますが、なにしろそういう現実は地味。それを1本の映画として作っちゃったこと、しかもちゃんとエンターティメントしてるということが、今回の「シン・ゴジラ」のすごさではないかと考えます。
 
 おそらく庵野総監督のプロットを見た時の東宝関係者は、「これでは客が呼べない」と渋ったと思います。それ以前に金が集められない。実際に集められなかったかどうか分かりませんが、今回の「シンゴジラ」は、最近多い製作委員会方式ではなく東宝と映画制作プロのシネバザールによる出資製作。おかげでジャニーズは出てこないわ、AKBは前田敦子がほとんどエキストラ状態というすごい使い方。ストーリーや構成に出資者(社)からの横槍が入らないという映画制作としては一昔前のすごくいい環境ができた。これも「シン・ゴジラ」が多くの人に受け入れられている理由かと思います。

 
 うーむまた長くなった。次は一方の主役ゴジラについて書きたいと思います。