このblogでも本の感想を書いていますが、本沢山読みますよね、と言われることが多い。鞄の中には必ず文庫本が1、2冊入っています。年間で60〜100冊くらい(漫画除く)が、多いか少ないかは微妙なところ。
ジャンル的には、フィクション70、ノンフィクション20、評論10って感じ。
ビジネスマン的には、「〜に役立つ○○(〇には数字が入る)の手法」とか、すぐに使える自己啓発本を読むのが正解とされますが、その類のビジネス書やHowtoもの(役に立つ系)は年に数冊読む程度で、読んだ本にカウントしません。つーか、そういう本って勉強にはなると思うんですが、そういう本を勧めて来たり、後生大事に座右の銘とかにされると、誤解を承知で言うと、「ばっかじゃない!」と思います。
いや、参考になると思うんですよ。お手軽に"格言"とかあって、その例とか載っていて。でもそういうもんで得た知識ってすごく軽く感じます。それなのにそういう本を恥ずかしげもなく勧めてくるビジネスマンのなんと多い事か。ま、そういう本が売れているから読んじゃって勧めてくるとは思うんですけど、なんか違うと思います。
本を読むことって知識を得ることではないと思っています。intelligenceというよりもemotional。テキストは知識を得るものですので、テキストとして読むのであれば正解ですが、とすると、本を読む行為がとっても不純に感じます。
小説(フィクションや事実を元に書かれた物語)は、何故存在するのか。
私的には、登場人物とシンクロすることで「自分ならどう行動するだろう」とか「どう考えるだろう」ということが大切で、自分の体験したことのないこと、体験できない事(殺人とか絶対無理だし)において、自分の思考実験をするものだと思います。それが、実生活上で自分の疑似的な体験として生きてくる。
ノンフィクションも同様で、市井の小市民である私が体験することのできない事柄を書き手を通して間近で見たように感じることができる。これも貴重な(疑似)体験です。
昔、若い頃のキムタクが「俺って本読まないんです。自分が体験したことがすべてなんで」と偉そうに言っていました。キムタク好きだったのにこの一言で幻滅しました。
人間一人の体験できることなんて限られています。人生は時間に限りがあるので、好きな事、興味のある事はするけど、それ以外はしません。法を犯すこともできない。未来にも過去にもいけません。
疑似体験とはいえ、本を読むことで思考体験をする。体験はできなくても「思考した」ということは事実です。
映画とかも同じです。おっとこれはまた別の話。
いろいろな物語に触れることで少しでも深みのある大人になりたい。そういう意味ではすべての物語はノウハウ本なのかもしれませんね。