奥野修司著・文春文庫(2009年文庫化・2006年初刊)
「ねじれた絆 -赤ちゃん取り違え事件の十七年-」に続き2冊目の奥野修司さん作品を読みました。
1969年(昭和44年)4月当時川崎市宮前区鷺沼にあった私立サレジオ高校で実際に起きた高校生殺人事件。犯人は同学年の少年で、被害者を殺害後、頭部切断。しかも自分もナイフで深く切り、別の人間が襲ったという狂言をしたものの、殺害の一部始終を見ていた目撃者がおり、犯行の全容が明らかに。
こういったノンフィクションは犯人側を追いかける事が多いけど、殺害された被害者家族の証言を丹念にルポして事件後どのように過ごしていたかを詳らかにしている。
いじめられた末の凶行ではあるけれど、そのいじめの様子はとても軽く扱われていて、ここまでの怨みを買うほどのことか?と疑問に感じはする。でもいじめた側というのは大体「これぐらいのことで」とか「からかい程度」と言ったりする。いじめられた側の気持ちなど一切忖度されない。
やったことは許されることではないし、はずみというにはやり過ぎの感はぬぐえない。だから私的には犯人=異常というよりも、"窮鼠猫をかむ"という印象が非常に強い。
頭部切断という猟奇的な殺人を犯しながら、少年法で守られた犯人は数年で社会復帰して、大学を卒業後弁護士になっていた。著者が取材中、30年近くたって被害者家族と接触をした加害少年の印象の悪い言動、行動が、更に被害者側に心を寄せざるを得ない程、酷い人格の持ち主という風なエピソードがいくつか出てくる。
確かに少年院を出て勉強をして弁護士となった加害少年は立派に更生したと傍目には思える。しかし被害者家族に対しての酷い言葉と態度はとても更生したとは思えない。
それでも、"でも…"と思ってしまうのは何故なんだろう。
一番知りたいのは彼が何故ここまで残虐な殺し方をしたのか、ということと、どういう心境が彼を凶行に走らせたかということ。それがこの本では判らない。それが判らないと、その後の彼の対応も軽々に酷い奴と判断してはいけないんじゃないかと思うのです。
いや、どんな理由があろうと、人を殺した以上はちゃんと誠意を持って謝るべきだし、自分の全ての人生をかけて償うべきだと思う。単にキレただけで深い理由がなく、少年法を盾に安穏と暮らしているのは許しがたい。
本当に被害者とその友達は、人格を傷つけるようないじめはしていなかったんだろうか。得てしていじめっ子は家庭ではいい子だったりする。そのいい子が殺されたら、家族は正常な精神を保っていられない。でもじゃあいじめられた側はどうだろう。もしかしたら、加害少年の方が自殺していた可能性だって否定は出来ない。それでいじめた側が安穏と暮らしていたら、いじめられて自殺されてしまった家族は同様にやりきれないに違いない。
犯罪被害者の家族を追ったルポとしては素晴らしいと思います。しかし、これを世に問うた以上、大変だとは思いますが、犯人側の人生をしっかりと追い掛けて欲しい。やっぱりどうしても片手落ちな内容に思えてなりません。
- 作者: 奥野修司
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 2009/04/10
- メディア: 文庫
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